Day Street

日々が道となり人生となる

自由と責任の社会に足を踏み入れる儀式

ロサンゼルスは夜の9時。

5時頃までクラスのことをずっと考えながら、内心泣きながら模索していた。

自らの失態でチャンスを掴むのが厳しくなってしまった。かなり落ち込んだ。だけど、まだ、僕はまだチャンスがある。そう思うと不思議とやる気が満ちてくる。そんな日です(´・ω・`)

地元鹿児島では成人式が執り行われており、同級生も振り袖や袴、スーツを来て市内のホールに集まっている。

この度僕が成人式に行かなかったのは、留学前に自分が親と口約束をしていたからでした。2ヶ月前の月初めに、親に「成人式やっぱ行きたい」って話したら、「断固拒否」という返答だった。親的には言ったことを責任持って果たして欲しかったのだろう。

結局人生で一番のイベントの成人式は欠席となったわけだが、おかげで大学の方はいろいろと可能性が見えて来ている。あの時に「断固拒否」を示した母親に感謝である。

僕は誕生日がバレンタインデーなので、まだ20歳なのでまだ19歳なのだが、周りからはもうハタチだねぇ、早いねぇと言われる。僕はまだ19歳だ。

19歳というものは非常に都合が良いもので、大人と未成年という非常に判別の難しい区分けと、年齢の区分けのグレーゾーンに居る。

別に犯罪とかの話がしたいわけではない。

何が言いたいのかというと、成人式の年を超えてしまうということは、僕らはもう大人として完全に区別されるということだ。

なんだー、まだハタチなのね!と言われることもなくなる。

飲酒も大多数の誕生日を終えた人々が法的にも解禁されている。

ハタチになる僕らは、完全に嗜好の自由という世界に踏み出すことができるのである。

昨年の成人式頃だろうか、Twitterで「新成人の皆さん、ようこそ自由と責任の社会へ」というTweetがRTされまくっていた。

英語で[自由]はFreedom:Libertyである。

権力や負債からの自由を唱えたことにより使われた言葉らしい。

一方仏法語的「自由」というものは

仏教も“自由”の語を大切にするが、その意味は異なる。自由の「由」は<よる><もとづく>という意であるから他に由らず、独立して、自存すること、即ち<自らにもとづく><自らによる>ことが“自由”である。晩年のブッダは、弟子達に「自らをよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」と教えられた。我々の行動の判断は、自らに由るよりも、むしろ他の意見や権力によって支配されることが多い。そこには自由がない。だからブッダは「自らによれ」と教えられたのである。

簡単にいえば「自立」というものである。

「未成年という社会的区別」の中から僕らは自由になり大人となる。

それと共に、「厳しい社会の中で、自らを持った一人」とならなければならない。

残念ながら自由には責任が伴ってしまう。悲しいかな集団組織の常である、と恩師は言っていた。

責任をとれるからこそ、僕らは自由の権限を与えられたわけだ。

僕らは自由と責任の世界へ完全に入ってしまった。

僕もそんな中の一人として、言ったことは責任持って実行できるようにしなければと「親との成人式出席の喧嘩」を思い出すたびに思い知る。

つまりなにが言いたいかって言うと、

やっぱりすごく成人式行きたかった。

ということだけである。ただし、今が非常に自分に成長させてくれる環境であり、充実感があるのがさらに僕を悩ませている。

ああ、ずっと19歳でダラダラ生きていたい。

今日は同窓会に出席する担任と電話がしたいがために、ちょっと遅くまで勉強しながら起きているつもり。

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